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アスリートの発信力を育んで行きたい(2017年11月号 ヨーコ ゼッターランドさん)

クラスメイトの総意でメガネを掛け始める

yokoメガネ縦.jpg日本、アメリカ両国で活躍した元バレーボールオリンピック代表選手、ヨーコ ゼッターランドさん。メディアで登場するときのヨーコさんは素顔のイメージが強いだけに、メガネ姿が印象的だった。
「皆さんにそういわれているんです。えっ、メガネをかけているんだって」とヨーコさん。実はメガネ歴は意外に長く、小学校5年生から掛け始めたという。「それ以前から視力は悪いと感じていたんですが、黒板の字が見えなくなってしまいました。教室では一番後ろの席だったこともあって、前の席にお願いして最前列に座ることができたのですが、先生は気を遣ってくれたのか、とても大きな字を黒板に書くものだから、クラスメイトからはブーイングを受けて、クラスをあげてメガネを勧められたんです」と当時を振り返る。

こうしてメガネを掛け始め、「こんなに良く見えるんだ」と見る世界は一変する。当初は授業中だけの使用をアドバイスされていたものの、メガネなしでは支障を来すようになり、体育の授業以外は常時メガネをかける生活はじまった。この頃から、バレーボールを始めるようになるが、終始見ることには苦労されてきた1人でもある。
「バレーボールを始めるようになり、習い始めた頃は誰もが下手ですよね。とくにレセプション(サーブレシーブ)が苦手。下手な上に遠近感も伴っていないので、コーチから『どうしてそんなにできないんだ』と言われてしまったんです。ここで初めてメガネを掛けていることを明かし、メガネを掛けてプレーするようになりました。中学1年生頃の写真が残っていますが、ヒョロヒョロで自信なさげな表情を浮かべ、今のようにスポーツ用のメガネではなく、いつも掛けているメガネにバンドをしている姿は、何とも恥ずかしい(苦笑)。中学2年生の途中からコンタクトレンズに替えましたが、視力低下を防げると聞いていたので、ハードタイプを使用していたんです。その当時、酸素透過性の高いタイプもなかったから、毎日のように目を赤くしていました。そのコンタクトレンズも、アメリカ代表時代にひやりとしたことがあるんです。チームには専任のオプトメトリストドクターがいて、またメーカーからコンタクトレンズやメガネの提供を受けていました。ここでソフトタイプを試したもののどうしても合わず、仕方なく片眼だけソフトタイプで臨んだ2回目のオリンピックでの日本戦で、ジャンプして着地、振り向いた瞬間にコンタクトレンズがズレてしまったんです。そのままプレーしてデッドになった時、副審にフィッティングをしたいと訴えたんです。時間がかかると遅延行為とみなされて交替させられてしまうので、すぐに直ると訴えている姿がクローズアップされてしまったんです。ハードタイプはある程度圧迫されてその見え方に慣れており、そのまま検査をしてしまったので、見え方に違和感を覚えてしまったと思います。結局、ハードタイプに戻り、現役引退まで使っていました」

強い信念を持って大学進学を決意

実業団入りが既定路線となるが、ヨーコさんは大学進学を決意する。実は当時、実業団に入り、そこから代表選手が選ばれる慣習のyoko左横2.jpgようなものがあり、オリンピック出場を目指すヨーコさんにとっては、あえて茨の道を選ぶことになった。
「中高校は、価値観の違いはあってもバレーボールが好きな人たちが集まった環境に身を置くことに何ら違和感を覚えませんでしたが、大学ともなればそれこそ全国から学生が集まり、バレーボールは好きだけれどレベルに差があり、また価値観の違いも明確で、様々な目的をもって大学に入ります。そういう人たちと関わり会う、つまり社会に出て行く前にこれまで経験できなかったことを大学で得たいと考えたんです。どうしてバレーボールが強い大学を選ばなかったのか、と言われました。もちろん考えないわけではなかったけれど早稲田に魅力があったし、私にとって最終目標がオリンピック選手になること、世界一になるという目標は変わることはありません。私にとって大学の4年間というプロセスは、アスリートとして目標に近付くための必要なプロセスだったんです」とヨーコさん。

好きなバレーボールに打ち込むことは当然として、それはある意味閉ざされた世界ともいえる。バレーボール以外の多くの人たちと触れ合うことで見聞を広め、1人の人間としての成長していくことも欠かすことはできない。しかし時代は、それを許してくれなかった。大学在学中に全日本に招集された例もあるが、その大学は1部リーグに属す強豪で強化体制も敷かれていたからです。かたや早大といえば6部リーグとその差は歴然だった。そんな逆境におかれていたものの、わずかな光明に一縷の望みを託すことになる。
「大学に進んだ時点で、オリンピックを考えている人ではない、そう捉えられている雰囲気は伝わってきました。でも切れかけていた糸がつながっていたんです。当時の女子バレー部の古市総監督(故人)部長は、アメリカナショナルチームのスタッフと深い親交がありました。ある時、当時のナショナルチームの監督に「日本とアメリカ両方の国籍を持っている子がいる」と紹介してくれたんです。「即戦力なら別だけど、まだ1年生だから無理をすれば後々大変になる。卒業後にトライアウトを受けても遅くはない」とアドバイスしてくれました。これは私も後になって聞いた話でした。4年生になって進路について古市先生に相談しようと思っていたところ、急逝されてしまったんです。オリンピックを諦めかけていたところ、わずかながらコネクションが残っていることを知り、知り合いを頼ってトライアウトにこぎつけることができました。その方は「米国籍を持っていてオリンピックに行きたいなら、トライアウトに挑戦すべき」といってくれたんです。また私自身、国籍も選択しないといけない時期でもありました。卒業を間近に控えた2月のことで、アメリカ代表チームは3番手のセッターを補充したかったようです。テスト受けて通らなかったら力がないだけ。しかもアメリカでは一切の先入観もありません。ほぼ切れかかった糸がつながったんです」

人間力を磨けばセカンドキャリアも見えてくる

yokoきめ.jpg現役引退後はスポーツキャスターとして第2の人生を歩む一方、自身のバレーボール人生に影響を及ぼした日本バレーボール協会やVリーグ機構の理事を務めるなど、バレーボールに対しての感謝の気持ちが表れている。
さらに日本バスケットボールリーグ(JBL)、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の理事を歴任するほか、日本体育協会、国立スポーツ科学センター等で要職に就き、スポーツ全般における普及、促進に向けての活動を続けている。中でも現在、力を入れているのが、アスリートのためのメディアトレーニング。アスリートの発信力とともに、セカンドキャリアを見据えたものだ。
「大学院で取り組んできたメディアトレーニングを軸にしていきたいんです。いまでこそインタビューの受け答えは上手になってきましたが、まだ途上だと思います。個人競技の選手は自分自身が対応しないといけないので、比較的対応力に優れていますが、団体競技となれば別。チームに1人でも対応できる選手がいればそこに集中してしまい、それ以外の選手はメディアへの対応力は養われなくなってしまう。アメリカではビジョントレーニング同様に古くからメディアトレーニングを行っています。スポークスパーソンやメディア講師を招き、実践的な受け答えを通じて養うもので、30年以上前から始まっています。企業にもメディアトレーナーを置くところもあれば、大学ともなれば町の顔、という側面をもつだけに、その講座も広く実施されているんです。日本でもようやく講座が設けられ、効果を含めた研究を継続していきたいと考えています。アスリート発信力は高く、語録ができるまでになっています。わかりやすい例でいえば、松岡修造さんのカレンダーは人気ですよね(笑)。アスリート自身の努力の成果ともいえますが、スポーツに長けているのは特殊能力の1つ。平等に分け与えられるものではありません。ゆえにもっと発信力を活かすことが大切なんです。優等生でなくても、何を伝えるかが大事。そして周囲の人たちからの協力に対する感謝の気持ちを忘れないこと。これはスポーツに限らずすべてに通じることなので、子ども達の良きロールモデルになってほしいんです。憧れの存在になることは、人間力が磨かれ、そこにセカンドキャリアを見えてくるはずです」

profile
よーこ ぜったーらんど
1969年3月24日、アメリカカリフォルニア州サンフランシスコ市生まれ。6歳から日本で育ち、中学、高校時代は全国大会や世界ジュニア選手権で活躍。早稲田大学ではチームを関東大学リーグ6部から2部優勝にまで導く。その後、単身渡米し、アメリカナショナルチームのトライアウトに合格。アメリカ代表として、92年バルセロナ五輪で銅メダルを獲得、96年アトランタ五輪で7位入賞。97年、ダイエーオレンジアタッカーズ(現久光製薬スプリングス)とプロ契約、1999年6月の引退まで、数々のタイトルを獲得した。現在はスポーツキャスターとして、各種メディアへ出演するほか、後進の指導、バレー教室、講演、エッセー執筆などで幅広く活動。また、Jリーグ理事、高校野球特待生問題有識者会議委員などバレーボール以外の分野でも活躍する。さらに09年10月からは、大学院にて「アスリートのメディアトレーニング」についての研究を進め、2011年9月、鹿屋体育大学体育学研究課体育学専攻(修士課程)を修了。13年に嘉悦大学女子バレーボール部の監督に就任し、4年間務めた。

※全文は是非、本誌でお楽しみ下さい。

 

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